PROLOGUE
言葉が降り続く町
ことば塔の朝
朝六時、ことは市はもうしゃべり疲れていた。
駅前の「ことば塔」から色とりどりの文章が空へ放たれている。
《人生を変える、たった一杯のコーヒー》
《選ばれた人だけが知っている、眠りの新常識》
《この町で唯一。あなた史上最高の朝を》
文章は広告幕になってビルの壁を流れ、音声になって街路灯から降り、短い通知になって人々の端末へ着地した。信号を待つ十数秒のあいだにも、三つの店が「今だけ」と呼びかけた。四つのサービスが「あなたのために」と約束した。五人の専門家が「知らないと損をする」と忠告した。
けれど、通勤する人たちは空を見なかった。信号が変わると、濡れた歩道をいっせいに渡っていった。
麦野灯(むぎの・あかり)は、低くまとめた黒髪をコックコートの襟から払い、薄暗い店の窓からことば塔を見上げた。白い袖には小麦粉がついている。午前三時から生地をこね、発酵を見て、店でいちばん古いオーブンへ最初の食パンを入れたところだった。
三十四歳の彼女は、仕込みでこわばった脚を伸ばし、腰のエプロンの結び目を締め直した。父から継いだパン屋「朝灯」は、まだシャッターを下ろした店が並ぶ通りで、窓に明かりをともしていた。足を止める人はいない。
あと七分。
焼き上がりを知らせるタイマーより先に、店の端末が鳴った。
《本日の発信を作成しますか?》
文章生成サービス「ツヅル」からの通知だった。昨日入力した売上、天気、在庫、ことは市で検索されている言葉をもとに、店に合う宣伝文を作ってくれる。
灯は粉のついた指で画面を押した。
《雨の日こそ、焼きたての幸せを。朝灯の特製食パンで、最高の一日を始めませんか?》
よくできた文章だった。間違っているところはない。読みやすく、明るく、店名も商品名も入っている。
ただ、昨日の文章も、その前の日の文章も、同じようによくできていた。
そして昨日、売れた食パンは四本だった。
灯は「別案を生成する」を押した。
《たった一口で笑顔になれる。創業三十二年、町の小さなパン屋が守り続けた味》
もう一度押した。
《がんばるあなたへ。自分にごほうびを贈る朝ごはん》
もう一度。
《知らないなんてもったいない。地元で愛される、ふわもち食パン》
どれも使えそうだった。どれも灯が書かなくても生まれる文章だった。
タイマーが鳴った。オーブンを開けると、熱い空気が頬へ触れた。甘い小麦の香りが店いっぱいに広がっていく。
この瞬間だけは説明がいらない。焼き色。ふくらんだ山。天板から食パンを外すときの軽い音。蒸気の向こうで薄く光る耳の部分。
父はいつも焼き上がったパンを前にして同じことを言った。
「パンはな、香りを使ってよくしゃべるんだ」
灯はその言葉が嫌いではなかった。ただ、父の時代と今は違う。焼きたての香りがどれだけよくしゃべっても、店まで来てもらえなければ届かない。
灯は四つ目の案を選び、ことば塔への配信を予約した。午前七時。町の空へ朝灯の言葉が加わった。
《知らないなんてもったいない。地元で愛される、ふわもち食パン》
言葉は大きく表示され、数秒後には別の店の言葉に押し流された。
そして、店を続ける判断までの
九十日間がはじまります。

